箱館の新選組②
それでは誠の旗の下、京都から箱館まで戦った新選組隊士を一人ずつ紹介していきましょう。
●阿倍隼太(あべ じゅんた) 慶応3年9月~12月までに入隊
箱館新選組での所属は『第3番隊嚮導役』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。
●蟻通勘吾(ありどうし かんご) 文久3年6月~7月までに入隊
箱館新選組での所属は不明。新選組の古参隊士で、池田屋事件においては土方隊に所属して奮闘。その後も、新選組が関わる数々の事件で活躍している。鳥羽伏見から会津まで転戦し、会津で死亡との報告もあるが、これは誤報で蝦夷に渡航している。明治2年5月11日、函館山の攻防戦で戦死した。奇しくも土方歳三と同じ日に・・・
●市村鉄之助(いちむら てつのすけ) 慶応3年10月~12月までに入隊
13歳で新選組に入隊し土方歳三の召抱人となる。鳥羽伏見から箱館まで、常に土方と行動を共にしたと思われる。箱館総攻撃の際に不明となったとされているが、土方の遺品を持ち箱館を脱出。7月初旬に日野に届けたという。この時届けたのは、遺髪、写真、時世の句。日野で3年ほど匿われて生活し、その後は西南戦争に参加し戦死したとされている。
●上田馬之丞(うえだ うまのじょう) 慶応3年6月~12月までに入隊
鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。蝦夷渡航後は松前攻防戦に参加し、そこで戦死、もしくは後日江差で捕縛されたと言われている。
●尾関 雅次郎(おぜき まさじろう) 文久3年6月~8月までに入隊
箱館新選組での所属は『第2番隊差図役』。蟻通勘吾と並ぶ古参隊士。池田屋事件時には既に在籍しているが出動の記録はない。鳥羽伏見から会津まで転戦し、会津で負傷するも蝦夷に渡航している。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は郷里に戻り暮らした。
●佐久間 顕介(さくま けんすけ) 慶応3年6月以前に入隊
箱館新選組での所属は『第2番隊嚮導役』。鳥羽伏見より仙台まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。
●佐々木一(ささき はじめ) 慶応3年7月~12月までに入隊
箱館新選組での所属は『第3番隊隊士』。鳥羽伏見より会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は明治政府に出仕し、76歳まで生きた。
●沢忠輔(さわ ちゅうすけ) 慶応3年6月~12月までに入隊
箱館新選組では土方歳三所属。鳥羽伏見より会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館では市村鉄之助同様、土方歳三と行動することが多かったと思われる。土方戦死の際、最も近くにいたのは沢忠輔だったと言われている。箱館総攻撃を前に湯の川へ脱出し、翌年に日野の佐藤家に土方の遺品(刀の下げ紐)を届けた。『智勇兼備の名将とは土方殿の謂ひなるべし』の言葉を残しているが、その後の消息は不明。
●島田魁(しまだ かい) 文久3年6月以前に入隊
箱館新選組での所属は『新選組頭取』。池田屋事件を始め、新選組の数々の事件、粛清に参加した古参隊士。新選組の表も裏も知る隊士である。京都では土方の右腕として働いたとされ、土方歳三が最も信頼していた隊士の一人ではないだろうか。鷲の木浜上陸から、五稜郭入城まで島田は守衛新選組として土方の警護に当たっている。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後は他の隊士と同様、青森県弘前の薬王院で謹慎し、名古屋で更に拘束された後に赦免された。赦免後は京都に戻り、晩年は西本願寺に警備員となり72歳まで生きた。島田は土方の戒名『歳進院誠義豊大居士』と書かれた布を生涯離さず身につけ、日々隊士の慰霊を弔ったという。新選組に関する多数の名簿、日誌も残している。
●白戸友衛(しらと ともえ) 文久3年6月頃に入隊
箱館新選組での所属は不明。京都以来の隊士ではあるが目立った記録はない。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館総攻撃、又は郊外の戦闘で戦死した。
とりあえず10名だけ。また時間ある時に残り16名を書きます。
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