2008年2月 8日 (金)

誤字?

知人から

知人:『ブログに書いてる新選組って字さぁ・・・』

わし:『ん?』

知人:『パソコンで変換すると、【撰】って字にならね?』

わし:『なるねぇ』

知人:『【選】と【撰】どっちが正解?』

わし:『どっちでもいいんじゃね?wwwwww』

知人:『じゃ、なんで変換で出てこない方わざわざ使ってるのさwwwwww』

わし:『そもそもだな、会津の軍制を記録した【しぐれ草子】という文献の中に出てくr・・・』

知人:『ちょwwwwwwそんな難しいこと言われてもわからんwwwwww』

わし:『じゃ勝手に好きな方使えwwwwww』

と、VIPER会話でアホみたいですが、【撰】と【選】どちらが正しいかアタクシにもわかりません(´_ゝ`)。古い資料では、どちらの字も使われていますしね。アタクシが【選】を使う理由は2つ。

一つは元冶元年5月に近藤勇が故郷に送った手紙に【新選組】の印が押されているからです。まぁ局長自身、どちらの字も使っているんですけどね(笑) もう一つは『八月十八日の政変に出動し、働きを評価され【新選組】の隊名を拝命した』と、島田魁が残しているからです。あくまでもアタクシ個人のコダワリであります('◇')ゞ

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2008年2月 2日 (土)

箱館の新選組④

残るは6人ですね。

●本田岩吉(ほんだ いわきち) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館新選組での所属は『第2番隊隊士』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。

●松沢乙造(まつざわ おとぞう) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館での所属は土方所属。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館総攻撃の前に脱走したと言われている。

●安富才輔(やすとみ さいすけ) 元冶元年9月~10月頃に入隊

箱館では陸軍奉行添役。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。安富才輔も箱館では新選組本体と離れた行動をしている。土方戦死の悲報を逸早く知り、立川主税に戦死報告の書簡を持たせ箱館を脱出するように命じた。自身は五稜郭で降伏し謹慎となる。赦免後は、東京で元御陵衛士の阿倍十郎に殺されたと言われているが、詳細は不明。

●山野八十八(やまの やそはち) 文久3年春に入隊と判断する。

箱館新選組での所属は不明。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場降伏名簿に名前はなく、横倉甚五郎の『元新選組連名』には『箱館エ残ル』と書かれている。しかし、当時の状況から判断すれば、元新選組隊士が箱館に残り、素性を隠したままでいるのは困難ではないだろうか。おそらく箱館総攻撃の前に脱走したと思われる。晩年は京都で娘の世話を受け、隠居生活を送ったという。

●横倉甚五郎(よこくら じんごろう) 元冶元年10月に入隊。

箱館新選組での所属は『第4番隊嚮導役』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。他の隊士が赦免される中、横倉は東京へと送られる。相馬主計、大石鍬次郎らの元新選組隊士らと共に、坂本龍馬殺害と新選組との関わりを認めるよう責めらる。後に、京都見回組の今井信朗が自白したことにより、新選組の関与は否定されたが、その時点で既に相馬主計は流罪で新島に、大石鍬次郎は斬首、そして横倉は最後まで関わりを否定して獄中で病死した。(斬首との説もあり)

●吉田万吉(よしだ まんきち) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館新選組での所属は『第2番隊士』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。

以上26名が京都から箱館まで戦い抜いた隊士なのです。誠の旗の下、彼らは何を想い戦い続けたのでしょうか。義の為でしょうか、それとも他の理由で戦っていたのでしょうか。いずれにせよ、その道のりは辛く険しいものだったでしょう。北の防人となるべく渡航し、夢叶わず散華した隊士、生き残り、歴史の生き証人となった隊士、戦いの終わり方は違えど、彼らは最後まで武士として恥じない生き方をしたと私は思います。

●土方歳三(ひじかた としぞう) 新選組創始者

箱館では陸軍奉行並箱館市中取締兼海陸軍裁判局頭取。言わずと知れた新選組副長である。土方歳三については、私がここで紹介するまでもないと思う。最後まで自分を律し、士道を貫き通し散華した立派な武士である。

たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらむ

最後に土方歳三を加えた27名として〆たいと思います。

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2008年2月 1日 (金)

箱館の新選組③

では、昨日の続きから。

●相馬主計(そうま かずえ) 慶応3年10月(文久3年説もあり)入隊

最後の新選組隊長。鳥羽伏見から奥州平潟まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館で土方と再会後は、陸軍奉行添役として永井玄蕃と共に箱館市中の警備にあたった。新選組隊長に任命されたのは5月15日。弁天台場降伏の日に隊長に任命されたのである。これは敗戦処理の為としか思えない。敗戦後、相馬は他の隊士と同じ扱いを受けることはなく、幹部として東京で取り調べと裁きを受けることになった。一年の取調べの後、新島に流罪とされた。2年の流人生活の後、明治5年10月に赦免された相馬だが、東京に戻ると割腹して果てた。理由等は一切不明である。(殺害されたとの説もあり)

●立川主税(たちかわ ちから) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館新選組での所属は『土方付属』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。土方歳三が戦死した翌日、安富才介の命により箱館脱出を図る。日野の佐藤家に手紙と追悼句を届ける為に。しかし、新政府軍に包囲された箱館からの脱出はならず、捕えられて秋田藩の預かりとなってしまった。明治5年に赦免され、その年に日野の佐藤家を訪ねている。その後は僧侶となり69歳まで生きた。生涯、土方を弔ったと言われている。

●玉置良蔵(たまき りょうぞう) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館新選組での所属は『土方付属』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館総攻撃の前に病死したとされている。

●田村一郎(たむら いちろう) 慶応元年5月に入隊

箱館新選組での所属は『第3番隊士』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。

●田村銀之助(たむら ぎんのすけ) 慶応3年10月に入隊

箱館での所属は『総裁付』。僅か11歳で新選組に入隊。他の隊士同様、鳥羽伏見から会津まで転戦するが、実戦には参加していなかった言われている。蝦夷に渡航後は榎本武揚総裁付となる。箱館総攻撃前に榎本武揚に脱出するよう諭されたが断固拒否し、五稜郭降伏まで籠城した。降伏後は弁天台場で降伏した隊士同様、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は西南戦争に参加したり、黒田清盛に同行して北海道を再訪したりしている。大正15年に亡くなった。

●田村録四郎(たむら ろくしろう) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館での所属は不明。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後は、青森県弘前の薬王院で謹慎。ちなみに、今回記述した田村姓の3人は兄弟である。長兄が一郎で、録四郎は次男になる。

●中島登(なかじま のぼり) 元冶元年10月に入隊。

箱館での所属は『第2番隊嚮導役』。中島登が京都以来の隊士であるのか?と言われれば書くことを控えるのが賢明なのかも知れない。元冶元年入隊しているが、京都での活動の記録は一切ない。中島登本人曰く、近藤勇より関東の情報収集を頼まれ、関東に潜伏していたという。このことから、新選組と行動を共にしたのは鳥羽伏見以降と考えられる。京都以来の隊士という言葉括れば中島は外れてしまうが、入隊時期も早く、戦友姿絵や覚書を残している功績からも、隊士として書くことにした。関東から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は静岡で余生を送った。

●中山重蔵(なかやま じゅうぞう) 慶応元年5に入隊

箱館新選組での所属は『第3番隊士』。鳥羽伏見から関東まで転戦し、関東以降の行動は不明だが蝦夷に渡航している。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎したと思われるが記録は残っていない。

●長島五郎作(ながしま ごろうさく) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館では土方所属。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館総攻撃時に戦死した。

●野村利三郎(のむら りさぶろう) 慶応3年6月頃に入隊

箱館では陸軍奉行添役。狙撃された近藤勇に付き従い、大阪から江戸に下ったとされているために、鳥羽伏見で戦っていないと思われる。流山で近藤勇の最後を見届けてから仙台まで転戦し、蝦夷に渡航。江差で旗艦海陽丸を失った旧幕府軍は、新政府軍の新鋭艦『甲鉄』奪取を計画。宮古湾でアボルタージュ(接舷攻撃)を実行した際、甲鉄甲板上で戦死したとされる。(移艦に失敗、落水して捕らわれ斬首との説もある)

ふ~・・・今日も10人で力尽きました(´・ω・`) あと6人は後日に

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2008年1月31日 (木)

箱館の新選組②

それでは誠の旗の下、京都から箱館まで戦った新選組隊士を一人ずつ紹介していきましょう。

●阿倍隼太(あべ じゅんた) 慶応3年9月~12月までに入隊

箱館新選組での所属は『第3番隊嚮導役』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。

●蟻通勘吾(ありどうし かんご) 文久3年6月~7月までに入隊

箱館新選組での所属は不明。新選組の古参隊士で、池田屋事件においては土方隊に所属して奮闘。その後も、新選組が関わる数々の事件で活躍している。鳥羽伏見から会津まで転戦し、会津で死亡との報告もあるが、これは誤報で蝦夷に渡航している。明治2年5月11日、函館山の攻防戦で戦死した。奇しくも土方歳三と同じ日に・・・

●市村鉄之助(いちむら てつのすけ) 慶応3年10月~12月までに入隊

13歳で新選組に入隊し土方歳三の召抱人となる。鳥羽伏見から箱館まで、常に土方と行動を共にしたと思われる。箱館総攻撃の際に不明となったとされているが、土方の遺品を持ち箱館を脱出。7月初旬に日野に届けたという。この時届けたのは、遺髪、写真、時世の句。日野で3年ほど匿われて生活し、その後は西南戦争に参加し戦死したとされている。

●上田馬之丞(うえだ うまのじょう) 慶応3年6月~12月までに入隊

鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。蝦夷渡航後は松前攻防戦に参加し、そこで戦死、もしくは後日江差で捕縛されたと言われている。

●尾関 雅次郎(おぜき まさじろう) 文久3年6月~8月までに入隊

箱館新選組での所属は『第2番隊差図役』。蟻通勘吾と並ぶ古参隊士。池田屋事件時には既に在籍しているが出動の記録はない。鳥羽伏見から会津まで転戦し、会津で負傷するも蝦夷に渡航している。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は郷里に戻り暮らした。

●佐久間 顕介(さくま けんすけ) 慶応3年6月以前に入隊

箱館新選組での所属は『第2番隊嚮導役』。鳥羽伏見より仙台まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。

●佐々木一(ささき はじめ) 慶応3年7月~12月までに入隊

箱館新選組での所属は『第3番隊隊士』。鳥羽伏見より会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は明治政府に出仕し、76歳まで生きた。

●沢忠輔(さわ ちゅうすけ) 慶応3年6月~12月までに入隊

箱館新選組では土方歳三所属。鳥羽伏見より会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館では市村鉄之助同様、土方歳三と行動することが多かったと思われる。土方戦死の際、最も近くにいたのは沢忠輔だったと言われている。箱館総攻撃を前に湯の川へ脱出し、翌年に日野の佐藤家に土方の遺品(刀の下げ紐)を届けた。『智勇兼備の名将とは土方殿の謂ひなるべし』の言葉を残しているが、その後の消息は不明。

●島田魁(しまだ かい) 文久3年6月以前に入隊

箱館新選組での所属は『新選組頭取』。池田屋事件を始め、新選組の数々の事件、粛清に参加した古参隊士。新選組の表も裏も知る隊士である。京都では土方の右腕として働いたとされ、土方歳三が最も信頼していた隊士の一人ではないだろうか。鷲の木浜上陸から、五稜郭入城まで島田は守衛新選組として土方の警護に当たっている。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後は他の隊士と同様、青森県弘前の薬王院で謹慎し、名古屋で更に拘束された後に赦免された。赦免後は京都に戻り、晩年は西本願寺に警備員となり72歳まで生きた。島田は土方の戒名『歳進院誠義豊大居士』と書かれた布を生涯離さず身につけ、日々隊士の慰霊を弔ったという。新選組に関する多数の名簿、日誌も残している。

●白戸友衛(しらと ともえ) 文久3年6月頃に入隊

箱館新選組での所属は不明。京都以来の隊士ではあるが目立った記録はない。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館総攻撃、又は郊外の戦闘で戦死した。

とりあえず10名だけ。また時間ある時に残り16名を書きます。

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2008年1月30日 (水)

箱館の新選組①

箱館新選組で京都以来の隊士は何人いたのか('Д')?

以前13名と書きましたけど、これは弁天台場で降伏した隊士、且つ、京都以来の隊士ということなのです。ですから、単純に京都以来の隊士となれば13名以上になるわけですよ。しかも、13名と書いた後、色々と調べていたら、どうも13名じゃないのでは・・・という気もしてきましてねぇ(´・ω・`)

ということで、もう一度調べ直してみました。今回は箱館新選組隊士で京都から転戦した来た者ということで、ちょっとだけ人数が多くなりました。まず京都以来の隊士を限定するに当たって、

慶応3年までに入隊したであろう・・・

そして、鳥羽伏見を戦ったであろう・・・

と考えられる隊士までとしました。早くも曖昧な表現で信憑性を落としているわけですが(^o^;) 隊士全員分の入隊年月日が記録されてるわけじゃないですからねぇ。多分、この時期に入隊してるだろう!いや入隊したに違いない!入隊したことにしてくれ!という考えでまとめていかないと先に進めないんすよ( TДT)

入隊時期を限定したら、次に箱館に存在していた!という証拠がなければならないわけでして、何を根拠とするかなのです。既に信憑性をおとしてますからね・・・まず、最初に飛びついた資料は、明治2巳年5月15日に作成された【新撰組弁天台場降伏者名簿】もしくは【弁天台場籠城者名簿】とでも言うのでしょうか。これはもう、その名の通りです。弁天台場降伏時に作成された新選組隊士の名簿なのであります。何のために作成されたのかは分かりませんが、ここに名前が記載されているということは、箱館で戦ったという動かぬ証拠になるのです。ということで、この名簿の中から慶応3年までに入隊した隊士を探してみました。

隊士92名中、慶応3年までに入隊してた者(と思われる)13名

となりました。尚、兵卒の11名は隊士として数えておりません。京都から戦い抜いて、箱館で降伏した隊士は僅か13名だったのです。

しか~~~し!

これで全員ではないのですよ。この13名は弁天台場で降伏した隊士であり、降伏する以前に戦死した隊士や、脱走した隊士もいるのです。んでは、次に何を調べたかと言いますと、横倉甚五郎名簿中の箱館戦争時の隊士名簿なのです。作成されたのは慶応4年戊辰6月とされ、箱館での新選組隊士を調べる上では貴重な資料なのです。この名簿の中から慶応3年までの入隊者を調べてみると・・・

隊士84名中、慶応3年までに入隊してた者(と思われる)12名

この12名は、前述した弁天台場降伏人名簿と全員重複しています。ここで疑問を感じた方は素晴らしい!そうです、12名しかいないのは不思議ですよね。弁天台場で降伏した人数は13名、なのに箱館新選組の隊士名簿では12名。この数字から判断すれば、横倉甚五郎名簿が作成されてから、弁天台場で降伏するまでの間に一人加入したことになります。それじゃあ京都以来の隊士じゃないじゃないか!と考えるのは早計なのです。この足りない一人の名前は相馬主計】なのです。言わずと知れた新選組最後の隊長が、横倉甚五郎名簿には含まれていなかったのです!何と言う記入漏れ!何と言うミス!・・・ではなくて、名簿作成時の相馬主計は陸軍奉行添役という立場でしたので、この時点では隊士として記載はされていなかったのではないでしょうか。戊辰戦争見聞略記に

『陸軍奉行添役相馬主計、我隊に属してともに締をなす。町ごとに屯所を設け、夜巡邏を厳にす』

とあります。文中に我隊に属してとはありますが、立場はあくまで陸軍奉行添役、しかしながら、新選組の仕事も兼務していたと捉えることができないでしょうか。都合の良い捉え方かな?(笑)とにかく、相馬主計は最後には新選組隊長になりましたから、12名+相馬主計ということで、弁天台場降伏の人数と一致することになるのです。

じゃあ13名決定だね!

といかないのが面倒なところ・・・更に同じ横倉甚五郎名簿中の『元新選組連名』を調べてみました。この元新選組連名は島田魁が記した『京都ヨリ会津迄人数』と記載されている隊士はほぼ同じ。箱館で降伏した隊士は含まれていませんが、鳥羽伏見開戦直前から蝦夷渡航までの隊士の離脱が克明に記されています。この名簿の中から蝦夷に渡航した者を更に調べてみる。すると・・・

元新選組連名で蝦夷に渡航した者、10名

この名簿は先述した通り、弁天台場で降伏した隊士は含まれていない。つまり、この数字がそのまま蝦夷に渡航後、戦死か脱走した人数となるのです。これに弁天台場での降伏人数を加えると23名となります。

蝦夷に渡航した京都以来の隊士23名!

これで決定!と言いたいところですが、横倉甚五郎名簿は隊士が脱漏している名簿なのです・・・・ですから、更に島田魁の『京都ヨリ会津迄人数』を調べてみる。こちらの名簿も慶応3年12月頃に作成されたと言われており、隊士の怪我、戦死、脱走、蝦夷渡航を記している貴重な資料なのです。その数157名・・・・つ、疲れるな、おい( TДT) まぁ、この名簿で23名となれば、人数が一致するので一件落着となるわけで、最後の気力を振り絞って頑張りますよ。で、調べた結果は・・・

京都ヨリ会津迄人数で蝦夷に渡航した者、27名

うひゃひゃひゃひゃひゃ・・・・・・・4人合いませんね(;´д⊂)。この4人は誰かといいますと・・・田村銀之介、野村利三郎、土方歳三、安富才介でした。土方歳三は隊士じゃないから、前述した3つの名簿から抜けるのは分かりますけどね。他の3人も慶応3年までに入隊したと判断できますので、この4つの名簿から導き出した人数は26名。(土方歳三除外)

もうこれで間違いないと思うけどなぁ・・・他にも箱館脱走人名簿等がありますけど、新選組を調べるのならば、この4つの名簿で十分カバーできると思うのですよ。島田魁の『仙台ヨリ脱走後名簿』については、横倉甚五郎名簿の新選組名簿とほぼ同じなので、目を通してチェックするだけにしました。26名の隊士を書こうと思ったけど、ここまでで力尽きたので、また次回にでも。

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2008年1月27日 (日)

失礼しました_(._.)_

アタクシが以前書いた五稜郭タワーの記事の中で

>実際、箱館新選組で京都以来の隊士というのは僅か13名、池田屋を知っている隊士は3名しかいませんでした。

という記述をしました。この記事を読んだ方から『池田屋を知っているのは4人じゃないのか?』という指摘を受けましたので、なぜ3人としたかを改めて書かせていただきます。

まず、土方歳三・嶋田魁・蟻通勘吾については、元治元年八月四日付けで下された『会津藩庁記録』(池田屋事件報奨金リスト)に名前が記載されていますので、池田屋事件に参加したのは間違いありません。箱館戦争時に土方歳三は新選組の隊士ではありませんでしたので、隊士として箱館戦争を戦ったのは嶋田魁・蟻通勘吾の2名。

次にアタクシが考えたのは尾関雅次郎。入隊時期は文久3年の6月以降ということで、ハッキリとした時期はわかりません。しかし、池田屋事変の時に新選組に在籍していたのは間違いないでしょう。なぜならば、尾関雅次郎より遅れて入隊した兄の尾関弥四郎が、先に記述した『会津藩庁記録』に、名前が記載されているからです。雅次郎は池田屋事件には参加しておりません。病気だったのか、屯所の警護で参加できなかったのかはわかりませんが、兄の存在が池田屋事件時に在籍した裏付けになると考えたからです。これで3名。

残る1名・・・おそらく4名と考えた方は、山野八十八を数えたのかと思います。んー・・・実際アタクシも数に入れるべきか、かなり悩んだのです・・・・・・山野八十八は池田屋事件の年に在籍していたのは間違いありません。元治元年11月に作成されたと言われる『行軍録』に八十八の名前が明記されていますしね。ただ入隊時期がハッキリとわからないのです・・・文久3年で嶋田魁と同じという説もあれば、伊東甲子太郎と一緒という説もあります。

まず、嶋田魁と一緒に入隊したのならば、小島鹿之助『国事異聞』に嶋田と並んで名前がないのは何故なのだろうと・・・名前の無いことが在籍していない証拠にはなりませんが、『行軍録』まで記録上名前が出てこないのがひっかかっていたのです。平山五郎の剣稽古の相手をした話、四条堀川の米屋事件等、八十八の存在を示している話がいくつかあります。これらの話から、池田屋事件時に在籍したと考えてもおかしくはないのですが、自分が納得できる資料を見つけれなかった。ということで、疑わしきことは書かないでおこうと、あえて3人と言うことでブログに書いたわけです。

しかし、その後色々な本や資料を読みまして、平尾道雄氏が自費出版した『新撰組史』の中にある50名の隊士リストを見ました。文久3年のいつ頃のものか、出典はどこかなど謎の多いリストではありますが、文久3年の八月に起きた禁門の政変に出動した新選組隊士52名に最も近いリストではあると思います。この中の『正野八十八』が山野八十八であるならば、やはり文久3年には在籍したと考えるべきなのでしょうね・・・

んー未だ悩んではいるのですが、池田屋事件時に在籍を完全に否定するものも無し、上記のリストに正野八十八で名前あり、文久3年の事件や話にも名前が出ていることから、在籍していたと考えるのが正解なのかなぁ・・・ということで、前置きが長くなりましたが、今は4名の方に気持ちが傾いております。まずは4名と訂正し、また色々な資料などを読み漁ろうと思います(;´д⊂)

また、アタクシの知識不足は否めませんので、

バカヤロー!こういうのがあるんだよ

というのがありましたら、どんどん意見をお願い致します_(._.)_

PS 京都以来の隊士13名という表現も、もう一度見直して書き直したいと考えております。もう少しお待ちください_(._.)_

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2007年9月10日 (月)

土方歳三

函館は新撰組終焉の地。

アタクシが新撰組に興味をもったのは、郷土の歴史を知る上で無視できないものと考えたからです。色々な資料を読み漁り、気が付けば新撰組に引き込まれていました。隊士の誰が好きだとか、嫌いだとかではなく、新撰組という集団の魅力に取り憑かれてしまったのです。アタクシが好きなのは、あくまでも史実の中の新撰組。大河ドラマやオリジナルDVDには興味がありません。

【土方歳三は死地を求めて蝦夷に渡った】

先日、知人がこのようなニュアンスで話をしてきたのですが、これはどうなんでしょう・・・知人に限らず、雑誌などにも【死に場所を求めて・・・】的な発言が引用されていることが多いのですが、アタクシにはそうは思えないんですなぁ。土方が死に場所を求めるだけの戦いをしていたならば、なぜ京都から蝦夷まで転戦して戦い抜いたのか。言い方は悪いですが、死ぬだけならどこでも死ぬことが出来たはずなのです。

アタクシが思うに、土方歳三は自分の運命を感じつつ、最後まで新撰組、自分の信義のために戦っていたと思うのです。京都で志半ばで倒れた仲間達、切腹を許されず処刑された近藤勇の為にも、生き残りの新撰組隊士として信義を貫く為に戦ったいたと信じたいのです。新撰組の隊旗は【誠】です。【誠とは、言ったことを成す】ということなのです。最後の最後、一本木関門で銃弾に倒れた土方歳三は、どのような気持ちだったのでしょうね・・・

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