では、昨日の続きから。
●相馬主計(そうま かずえ) 慶応3年10月(文久3年説もあり)入隊
最後の新選組隊長。鳥羽伏見から奥州平潟まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館で土方と再会後は、陸軍奉行添役として永井玄蕃と共に箱館市中の警備にあたった。新選組隊長に任命されたのは5月15日。弁天台場降伏の日に隊長に任命されたのである。これは敗戦処理の為としか思えない。敗戦後、相馬は他の隊士と同じ扱いを受けることはなく、幹部として東京で取り調べと裁きを受けることになった。一年の取調べの後、新島に流罪とされた。2年の流人生活の後、明治5年10月に赦免された相馬だが、東京に戻ると割腹して果てた。理由等は一切不明である。(殺害されたとの説もあり)
●立川主税(たちかわ ちから) 慶応3年6月~12月までに入隊
箱館新選組での所属は『土方付属』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。土方歳三が戦死した翌日、安富才介の命により箱館脱出を図る。日野の佐藤家に手紙と追悼句を届ける為に。しかし、新政府軍に包囲された箱館からの脱出はならず、捕えられて秋田藩の預かりとなってしまった。明治5年に赦免され、その年に日野の佐藤家を訪ねている。その後は僧侶となり69歳まで生きた。生涯、土方を弔ったと言われている。
●玉置良蔵(たまき りょうぞう) 慶応3年6月~12月までに入隊
箱館新選組での所属は『土方付属』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館総攻撃の前に病死したとされている。
●田村一郎(たむら いちろう) 慶応元年5月に入隊
箱館新選組での所属は『第3番隊士』。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後の消息は不明。
●田村銀之助(たむら ぎんのすけ) 慶応3年10月に入隊
箱館での所属は『総裁付』。僅か11歳で新選組に入隊。他の隊士同様、鳥羽伏見から会津まで転戦するが、実戦には参加していなかった言われている。蝦夷に渡航後は榎本武揚総裁付となる。箱館総攻撃前に榎本武揚に脱出するよう諭されたが断固拒否し、五稜郭降伏まで籠城した。降伏後は弁天台場で降伏した隊士同様、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は西南戦争に参加したり、黒田清盛に同行して北海道を再訪したりしている。大正15年に亡くなった。
●田村録四郎(たむら ろくしろう) 慶応3年6月~12月までに入隊
箱館での所属は不明。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後は、青森県弘前の薬王院で謹慎。ちなみに、今回記述した田村姓の3人は兄弟である。長兄が一郎で、録四郎は次男になる。
●中島登(なかじま のぼり) 元冶元年10月に入隊。
箱館での所属は『第2番隊嚮導役』。中島登が京都以来の隊士であるのか?と言われれば書くことを控えるのが賢明なのかも知れない。元冶元年入隊しているが、京都での活動の記録は一切ない。中島登本人曰く、近藤勇より関東の情報収集を頼まれ、関東に潜伏していたという。このことから、新選組と行動を共にしたのは鳥羽伏見以降と考えられる。京都以来の隊士という言葉括れば中島は外れてしまうが、入隊時期も早く、戦友姿絵や覚書を残している功績からも、隊士として書くことにした。関東から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎。赦免後は静岡で余生を送った。
●中山重蔵(なかやま じゅうぞう) 慶応元年5に入隊
箱館新選組での所属は『第3番隊士』。鳥羽伏見から関東まで転戦し、関東以降の行動は不明だが蝦夷に渡航している。弁天台場で降伏後、青森県弘前の薬王院で謹慎したと思われるが記録は残っていない。
●長島五郎作(ながしま ごろうさく) 慶応3年6月~12月までに入隊
箱館では土方所属。鳥羽伏見から会津まで転戦し、蝦夷に渡航。箱館総攻撃時に戦死した。
●野村利三郎(のむら りさぶろう) 慶応3年6月頃に入隊
箱館では陸軍奉行添役。狙撃された近藤勇に付き従い、大阪から江戸に下ったとされているために、鳥羽伏見で戦っていないと思われる。流山で近藤勇の最後を見届けてから仙台まで転戦し、蝦夷に渡航。江差で旗艦海陽丸を失った旧幕府軍は、新政府軍の新鋭艦『甲鉄』奪取を計画。宮古湾でアボルタージュ(接舷攻撃)を実行した際、甲鉄甲板上で戦死したとされる。(移艦に失敗、落水して捕らわれ斬首との説もある)
ふ~・・・今日も10人で力尽きました(´・ω・`) あと6人は後日に
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